耳の断捨離

断捨離ブームって、まだ続いているのでしょうか?

最近、掃除と片付けがマイブームなtomoです。
ゆるりまいさんの「わたしのウチにはなんにもない」の本に感化されて、捨て旋風もひそかに吹きはじめてます。。

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さてさて、
先週、四日間のお芝居のワークショップに参加しました。

もう三年前くらいから行っているワークショップで、ちょっぴりヘンテコな内容です。(この詳細は、また別の機会に、、、。)

今回は出演する側ではなく、見る側でした。
客席にじっと座って、稽古シーンを観たり演出家の言葉を聞いたりしました。

3日目からosuも参加したので、
セリフとか演出家のダメだしとか、聴こえる言葉をなんとか手話通訳しようとがんばったのですが、
私の耳に届く言葉が、以前に比べてとても少ないことに気づきました。

もし私一人だったら、聞こえないけど、まぁ聴こえてるような聴こえてないようなフリしてヘラヘラしとこ〜って思うのですが、

osu横に居たら、耳を研ぎ澄ませて、言葉を掬い取りにいきたいと意気込み、
そして手話へと繋いで伝えようと頑張りました。

でも、やっぱり聴き取れる言葉はほんの少しで、もし聴こえたとしても手話通訳に手こずる。。
おまけに、演出家が言うことってホント意味不明なことばっかり。。

もう疲れてしまったので、最終日は、ほとんど手話通訳しませんでした。

osuには悪いなぁーとおもったけど、
そのことを伝えていたので、osuは気にしていない様子で有り難かったです。

本番中、演じている人のセリフははぼ聴こえないので、私は仕草や表情を見て、色々自分で想像してお話を創造しました。
osuも同じ方法でお芝居を楽しんでいたようでした。

本番が終わり、打ち上げの時、どういうシーンだったのか、と演じた人や観ていた人に確認すると、
私が想像したのとほぼ合っていました。

なぁんだ〜聴こえなくても、問題なかったんだー、、と思いました。

それに私の耳に届いた数少ない言葉がキーになっていたので、
その微量の言葉だけで充分だったようでした。

ワークショップが終わって、いろいろ考えて、私はある思いに到達しました。

私の耳は、自分の欲しい情報を選んで聴いているのかな〜、
聞こえない音を頑張って無理矢理に聞いても、自分の悪口だったりマイナスの言葉だったりロクなことない。(そういう経験がありました。)
自分の耳に届く音だけを信じて生きるほうが幸せかもなぁーって感じました。

そりゃあ、皆が何がオモシロくて笑ってるのか、気になるけど、私だけのオモシロイこと見つけてほくそ笑むのも、これまたオツや。
そっち方面に考え方を変えて、これからも聞こえないけどワークショップには参加しよう。

こうしてtomoの妄想筋肉はどんどん鍛えられていくのです 笑

他の人に比べると、私の耳には、少ない言葉が届いていると思いますが、
osuと比べると、私の方がたくさんの音や言葉が届いているのでしょう。

部屋に例えると、
私の耳が、モノが少ない部屋だとすると、
osuの耳には、ゆるりまいさんの「わたしのウチにはなんにもない」状態に近いと思いました。

パソコンに向かって石みたいに固まって集中している時のosuは、ときどき、禅寺で瞑想するお坊さんみたいに見える時があります。

考え方もびっくりするくらいシンプルで、直接的だし。。
普段、私は色んなことを聞きすぎて考えすぎてるのかなぁーと思います。

窪美澄さんの「ふがいない僕は空を見た」という小説の中に、

「本当に伝えたいことはいつだってほんの少しで、しかも、大声でなくても、言葉でなくても伝わるのだ。」

っていうのがあったけど、あの一文読んでtomoはタラリと泣いた日があったなぁ。。

日本語に比べて手話の言語表現も極小だし、
それも言葉の断捨離になるのかな、、、。

このへんでやめとこ(^_^;)

あたまが断捨離モードになっているtomoでした、悪しからず。。

最小限に減らしたネックレス群

最小限に減らしたネックレス群

 

tomo

 

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